1.       はじめに

20世紀のはじめ、紋別市を含めた環オホーツク一帯は多くの民族が住む多言語、多文化地域であった。北海道では新参者の言語である日本語のほかにアイヌ語の諸方言が話され、サハリンではやはり新参者のロシア系住民の言語のほかにサハリンアイヌ語、ニヴフ語の諸方言、それにウィルタ語、エヴェンキ語といったツングース系の言語が話されていた。しかし現在この地域で話されているのはもっとも遅くやってきた日本人とロシア人の言語である。日本の他の地域に類を見ないほどの多言語地域であった環オホーツクという地域がわずか1世紀の間にその言語的多様性を喪失した。21世紀を迎えた今日、環オホーツクの多言語性を担った人たちの子孫はどうしているのだろうか。サハリンに長期滞在し、ニヴフ語の現地調査を行った経験から先住民族言語の現状と問題点について報告する。

 

2.       サハリンの先住少数民族

サハリンには日本人やロシア人が渡って来る以前から住んでいた人々がいる。ニヴフ(ギリヤーク)、ウィルタ(オロッコ)、サハリンアイヌといった民族である。2002年に行われたロシア連邦の最新の国勢調査によると、サハリン州にはニヴフが2,450人、ウィルタが298人居住している(いずれも自己申告)。サハリン州の全人口は546,695人となっており、そのうちの最大の民族集団がロシア系で460,778人、次いで朝鮮系が29,592,ウクライナ系が21,831人の順になっている。数字の上からも先住民族が圧倒的な少数者であることがわかる。

 

3.       ニヴフ人とニヴフ語

ニヴフ語はアイヌ語や日本語、朝鮮語と同じように系統のわからない、いわゆる孤立語である。アイヌ語やウィルタ語といった隣り合った言語とも長い接触の歴史があるが、借用語程度の共通語彙しかなくお互いの言語が通じあうことはない。

ニヴフ人はかつて狩猟、漁労、採集を主な生業としていたが、最近の研究では中国(清)と日本との仲介貿易として知られる「サンタン交易」の重要な担い手であったことも明らかになってきた[1]。蝦夷錦や鉄器、毛皮といった商品を積んだ交易船を水面に走らすたくましい海洋交易民族でもあったのだ。

 

4.       研究史

ニヴフが文献に登場するのは中国の元王朝時代(1271-1368)の記録に出てくる「吉里迷」、「乞列迷」がもっとも早いと考えられている。その後17世紀半ばには北東アジアに進出したコサックも「ギリヤーク人」の記録を残した。日本人による記録では最上徳内(1799年『蝦夷草紙後編』)、中村小市郎(1801年『唐太雑記』)近藤重蔵(1804年『辺要分界図考』)が早い例であるが、詳細かつまとまった量の記録が登場するのは間宮林蔵の『東韃地方紀行』(1810年)、『北夷分界余話』(1810年)においてである。間宮林蔵はサハリンから大陸に渡る際、サハリン北部西海岸のノテトのニヴフ人有力者コーニの家に滞在し、その助力を得ている。

20世紀に入ってからはロシア側、日本側双方から研究が盛んになり、現地調査も頻繁に行われた。また日本統治時代の樺太(1905-1945)には数十世帯のニヴフがサハリン中部の敷香(現在のポロナイスク)近辺に居住しており、中目覚、高橋盛孝、服部健といった言語学者がその言語を研究した。

第二次世界大戦後サハリンは長らく外国人の立ち入りが困難だったが、1980年代の終わりにようやく現地調査ができるようになった。1990年に北海道大学(当時)の村崎恭子氏を団長とする国際言語調査団がサハリンを訪れ、ニヴフ語、ウィルタ語話者の存在を確認した。現在もサハリンにおいて現地研究者との国際共同研究がいくつか進行中である。

 

5.       サハリンの先住民族言語の現状

サハリンのニヴフ人とウィルタ人のうちそれぞれの言語を話すと申告した人はニヴフが287名、ウィルタが11名である。ユネスコが世界の言語の「消滅の危機度」を『危機言語レッドブック』で報告しているが[2]、それによるとサハリンで話されているニヴフ語は「深刻な消滅の危機」にあるとされ、ウィルタ語は「ほぼ消滅」とされている。

実際ニヴフ人でニヴフ語を比較的流暢に話す人はどう若くても50代後半である。その一つ下の世代は、生まれ育った環境にもよるが、聞いて理解する程度の語学力がある場合もある。しかし30代から下の世代ではこれも失われ、いくつかの単語やフレーズを知っている以外はロシア語しか知らない。家庭で話される言語もむろんロシア語である。ニヴフ語が使われる場面は民族祭などの特別なイベントの時、あるいは高齢者が集まった時などと非常に限られている。

 

6.       サハリンの先住民族言語の諸問題

こうした現実は現地ではどのように受け止められているのだろうか。

ニヴフをはじめとするサハリンの先住民族は激動の20世紀を生き抜いてきた。国家体制も帝政ロシア、戦前の日本帝国、ソビエト連邦、そしてロシア連邦と何度も替わった。先住民はそれぞれの域内で大日本帝国のよき臣民、あるいはソビエト社会主義共和国連邦のよき構成員となることを強いられ、国家政策による強制移住も何度も経験した。樺太では戦時中、先住民族の男性は日本の特務機関に徴用され、ソビエトとの国境地帯をパトロールする危険な任務につかされた。そのあげく戦後は日本軍に協力した容疑でソビエト軍に逮捕され、収容所送りとなり多くが命を落とした。そんな大民族のエゴに振り回された人々の怒りは静かだが大きい。私はあるときユジノサハリンスクの空港でちょっとしたトラブルから共同研究者でニヴフ人のG.ローク氏がロシア人の官憲にこう食ってかかるのを見たことがある。「あなた方ロシア人は私たちの土地に後からやってきてもう何十年も住み着いているのになぜいつまでたってもニヴフ語を覚えないのか」。

そんな過酷な時代を生き抜くには支配者の言語であるロシア語、日本語を学ぶほかなかった。今さら自分たちの言語が消滅の危機にさらされているとユネスコが認定したところでそのことでニヴフを責めることができるだろうか。

 

7.       言語の保持、復興

先日サハリン州の住民の平均月収が約6万円となり、ロシア連邦の中でも比較的高いほうであることが報道で紹介された。天然資源を目的に巨額の投資を続ける外国企業の恩恵を受けることのできる一部の人々も含めて平均をとればそのような数字がたたき出されるのだろう。しかし調査の中で私が接してきた人々の多くは定職がなく、高齢者(といっても50代も含まれるが)も月1万円に満たない年金で苦しいやりくりを強いられている。

そんな状況下でもニヴフ語を受け継ぎ、何とか民族の言葉と文化を盛り立てていこうとする動きがいくつかある。サハリン北部のネクラソフカ村では若い世代が中心となり、定期的に民族文化祭を開きニヴフ語劇や舞踊を披露している。話者も多くは高齢だがそうした活動への協力を惜しまない。

 

8. ニヴフ語音声資料プロジェクト

こうした現状を踏まえ、我々言語学者には一体何ができるか考えている。何かができると考えるほうがおこがましいかもしれないが、何とかニヴフ語を次世代に伝えたいと考えている人々のお手伝いくらいはできるかもしれない。私は1999年から現地調査を行っており、録音したテープもかなりの数になってきた。民話、歌謡、会話など録音内容は多岐にわたるが、その中でも内容が公開に適したものを選び『ニヴフ語音声資料シリーズ』としてこれまで計3号公刊してきた[3]。こう書くと偉そうだが、実は私はまだ一人ではニヴフ語の聞き起しができない。共同研究者のロークさんの協力を仰ぎながらゆっくり作業を進める。2003年はユジノの学生寮で2週間カンヅメして二人で聞き起こしをし、ロシア語訳をつけた。時にはロークさんの自宅のあるサハリン北部のノグリキで作業をすることもある。そんな時私はロークさんのアパートの階下に住むお姉さんのリディアさんのお宅に下宿する。リディアさんは私たちの作業をいつも温かく見守ってくれるが、私たちの仕事の内容については大変厳しい。「まだ量が足りない」「訳が間違っている」。褒められることを期待して起こしたニヴフ語テキストを見せるのだが、返ってくるのはそんな厳しい言葉であることが多い。そんなリディアさんも2年前の夏逝ってしまった。我々の仕事を遠い所から褒めてくれているのだろうか。どうもまだまだな気がしてならない。



[1] 佐々木史郎 (1996) 『北方から来た交易民−絹と毛皮とサンタン人−』NHKブックスNo.772

[2] Janhunen, Juha (1993) 『ユネスコ危機言語レッドブック』http://www.helsinki.fi/~tasalmin/nasia_index.html

[3] 白石英才・G.ローク(2002-)『ニヴフ語音声資料1-3 http://ext-web.edu.sgu.ac.jp/hidetos/indexjapans.htm